皿の中のサンコウチョウ?-初期鍋島瑞鳥文皿2023/06/11 20:26

写真は、20年ほど前に撮影した初期鍋島(古鍋島)の5寸皿であり、陶説第533号(平成9年8月)の表紙写真と同手であって、同書の目次には「染付瑞鳥文皿」と記載されている。それと同手又は同品が、平成14年に今右衛門古陶磁美術館で開催された染付鍋島名品展で「染付瑞鳥文皿」として展示されている。
一方、九州陶磁文化館の館蔵名品撰では、同手の皿が「染付流水鳥文皿」と表示されており(佐賀ミュージアムズウェブサイト)、鳥名は特定されていない。尚、その制作年代は1670~1690年代と記載されているが、アップした写真の皿は木杯型よりかなり浅く、高台は薄い付高台で、器体の手取りは非常に軽いといった、盛期鍋島とはかなり異なる作行で、寛文時代の日峯社下窯の作品ではないかと個人的には思っている。
瑞鳥とは、めでたいことの前兆とされる鳳凰、白雉、朱雀、白鷹、鶴などを指すらしい。しかし、皿の絵の鳥はこれらの瑞鳥には見えず、私にはサンコウチョウ(江戸時代は三光鳥又は烏鳳などといわれていた)を想起させる。

この皿の鳥は何を意図したものだろうか。
水町和三郎氏は、「鍋島の模様は知名の画家や、意匠家の創意によって生まれたものではなく、藩主を中心とした藩の雰囲気そのものの創意に依って生まれた意匠と見るのが史実」であり、「御抱え絵師や手頭画き(画工頭)はこの創案を図案化する一助手」であって、「此の図案が藩命として藩窯にまわされ、藩窯の選り抜きの熟練画工達の手によって描かれたものが鍋島模様である」と確信され、さらに、「表現された模様は狩野派や土佐派の本画から取材するものもないではないが、総じて寛文、元禄、享保頃に浪華江戸から出版された左記の模様本から出ている」と述べている(鍋島藩窯調査委員会編「鍋島藩窯の研究」、平安堂)。
しかし、それらの模様本として列挙されている書籍に当たっていないことはご容赦頂くとして、初期や盛期の鍋島よりもずっと後の歌川広重の「梅に三光鳥」に描かれた鳥は、まるで小型のクジャクのようだし、そもそも梅に三光鳥の取り合わせが不自然である(但し広重がサンコウチョウのつもりで描いたか否かはわからない)。また、江戸時代の鳥類図譜から選りすぐりの鳥を紹介する「江戸博物文庫 鳥の巻」(工作舎)の三光鳥は、ハトに長い尾をつけたようなもので、およそサンコウチョウには見えないものである。江戸時代にサンコウチョウが写実的に書かれた本や絵巻物も存在するが(例えばhttp://katyotyaya.blog18.fc2.com/blog-entry-1758.html)、寛文~元禄期にそのような本が存在したのか、あるいは、先の模様本にそのような写実的なサンコウチョウが書かれていたのかはわからない。
仮に、皿の図案が模様本から出たものではないとすると、後の藩窯以前の日峯社下窯時代はお抱え絵師や画工は図案化の単なる一助手ではなく、彼らの誰かがサンコウチョウを見て、それを図案化したという可能性はないだろうか。 何にしても、皿の下部に墨はじきで書かれた観世水のような模様は、九陶館蔵品の表示のように流水だと思われるが、何羽ものサンコウチョウが流水の上を翔ぶ様子というのは、ワクワクする光景である。その文様が流水ではなく青海波であったなら・・・。

サンコウチョウの渡りのときの尾について、高野伸二さんは「あの長い尾はどうするのでしょうか。ひるがえしなびかせて海をこえるのでしょうか。それとも、秋の換羽ですっぽりと落としていくのでしょうか。秋に出会う渡りの途中と思われる雄は皆、長い尾を持っていません。でも春、渡って来てすぐの雄は、もう長い尾を持っているように思います。」と書かれている(「野鳥を友に」、朝日文庫)。
そうだとすると、海を渡ってくるときは、サンコウチョウは長い尾を持っていることになり、その様子を見た人がいたのかもしれないと考えると、ちょっとロマンだな、と思う。
しかし、鍋島藩窯の画工は、他の細工人同様に秘密保持のため皿山の関所から外には出られなかったことが知られている。日峯社下窯でも同様とすると、そのような環境の中では、画工達が海を渡るサンコウチョウを見ることはできなかっただろうから、御陶器方の役人か誰かが見るか聞くかしたのだろうか。いみじくも、鍋島には灘越蝶文大皿という、海を渡る蝶の絵が描かれたものが存在する。そのような絵があるなら、その図案が何に由来するかはさておき、海を渡るサンコウチョウの絵が描かれた皿があったっていいじゃないか、と勝手な想像を膨らましている。

いずれにしても、鍋島は草花文や吉祥文が多く、鳥はセキレイやツバメなど少数種が見られるだけであり、瑞鳥かサンコウチョウかはともかく、珍しいことであるには違いない。

浅学のため、事実と根拠のない想像が混在していることはご容赦頂きたい。

6月27日追記
その後、延宝以前に狩野探幽が「雪中梅竹鳥図」で、元禄以前に狩野永納が「春夏花鳥図屛風」で、三光鳥らしき鳥を描いていることがわかった。また、大覚寺の正宸殿の明り障子の腰板に「光琳筆尾長鳥」という寺伝のある絵があり(佐藤磐根「大覚寺の三光鳥」http://kyotoyachou.hobby-web.net/siryou/siryou_08.html)、こちらは冠羽もあって、写実的なサンコウチョウである。
皿の下部の観世水と琳派の流水の類似を考えると、皿の絵のサンコウチョウは琳派の影響を受けているのではとの空想が膨らんでくる。光琳が絵を描き始めたのは延宝以降のことであり、光琳の名を使うようになったのは元禄に入ってからのようなので、皿の制作年代からすると、光琳以前の琳派の絵師、例えば光悦の流れを汲む者などが絡んでいるのではと、ますます妄想が拡がる。
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